livingroom diary

愛されるアラカンをめざしてw

遺影を盛るw

数人の親類を見送って、葬儀社の人と打ち合わせ等々するとき案外困ること
そして結構大事なこと


それは「遺影」


ちょっと話が長くなりますが私、大変失敬な不信心者でして…
宗教そのものには、歴史ジャンルとして大変興味はあり、宗教画とか絵巻物とか彫刻など、大好きです。また、信仰がどれだけ人を救って来たかという一方で、信仰の下自分たちの行いは神のお告げという免罪符の下、戦争が起き殺戮侵略をくりかえして来たのも歴史の一つだと思っています。


その話はさておき、今まで知り合った周囲にも、それぞれの宗教において大変信心深い方も多くおられ、そういう人の話を聞くと、おそらく自分の肉体が滅びても救われる、天国とか更に上の精神ステージとかに行ける、と本気で思われていて、この世での命が終わる事もそう悪くない、と疑いの余地なく考えられているのは素直に羨ましいと思います。


でも、私は性格的に今後も染まる可能性はほぼない。無から生まれ無に消えて行く間の事でしかない、みたいな冷めきった信念みたいなのがあり、だからこそ生きてる間楽しみたい、という原動力になっているんだろうと思います。また、そういうものに縋りたい、と思ってしまうような事がなかったのも幸せな事で、それについては自分の力だけではなく、守られている何か、縁や運の巡りあわせには感謝して過ごしたいと思っています。


話を戻すと、そんな私は戒名というものに抵抗がある。
もちろん、先日亡くなった義父、今から10年ほど前に亡くなった義母の菩提寺の風習で、お位牌ではなく「過去帳」というものに戒名が記され、今回義母の隣に義父の名前が書かれ、それを仏壇に置いて供養し、お墓にも戒名が刻まれるのであろう事についても、それには抵抗はありません。


でも、有難くも高僧につけていただいた、仏様としての名前の戒名、それが記されたお位牌や過去帳を見て、手を合わせる事って今の時代ほぼなくて、もちろんおいてあるそれらに手を合わせはしますが、どちらかと言うと遺影写真に向かって、手を合わせるケースの方が多いのではなかろうか。


逆に、昔は写真がなかったから、亡き人を偲ぶためにそういったものに、故人の魂を込める、という儀式を行って、手元で供養を行うために作りだした小物なんだろうと思っています。
義母の墓参りに何度かいっているうちに、周囲のお墓に、ご家族の戒名が並んでいる横に、生前の名前が彫られているお墓をちらほら見かけるようになり、ああ私はこういうのがいいな、と思いました。実際は戒名があっての刻印かもしれないし、戒名は戒名なりにそうすべき理由もあるのだろうとも思いますが。


その話は自分についてはとりあえず保留として、写真がまず問題。年数を経るほどに故人の顔も忘れてしまうものなので、できるだけいい写真を残したい。家族にもそんな事で煩わせたくないし。


還暦を迎える今年、家族がお祝いに何が良いかと言ってくれる時、これから毎年、写真館でちゃんとしたいい顔の、遺影に出来る写真を撮る、という事にするつもりでいました。


でも、セルフィーでよくね?と思い。
ほんと、こういうところがケチで俗人丸出しでお恥ずかしい…
しかもセルフィーなら盛り放題✨


ただ、娘たちが使ってるsnowとかのような加工はさすがに気恥ずかしいし、誰?となっても困る。ので、パソコンに送って、画像編集アプリで色味を弄って明るい顔色にして、ぼかしツールでシワを消したり、目に少し入ってる蛍光灯のハイライトを少し広げてみたりしました。まあまあ不自然でない、記憶補正で補ってもらえる程度には出来た気がします。


ただ、スマホ写真って魚眼なので、鼻が大きくなってしまうのね。遠目にして撮ってから切り取って加工とか、工夫が必要かも。まあ、また時間ある時にやってみるつもりです。


そう、こういうのもあるし、なので今からでもスキンケアやメイク、遅まきながら頑張ってみようと思ったのもあります。うーん、年々シワは増えていくんだろうけど、もうちょっとメイクで盛るのが上手になりたいな…髪も伸ばしたいし。まだ死ねないっすね。